今回の本 タイトル:こわれた腕環 ゲド戦記2 著者:アーシュラ・k. 次に、テルーの年齢です。映画版ではアレンと同年代の少女として登場しますが、原作のテルーはまだ幼く、おまけにひどい火傷の後遺症で言葉もろくに話せません。他にも、ロークの学院の黎明期を描いた「カワウソ」、ゲドの師であるオジオンの若き頃が語られる「地の骨」など、本編につながる前日譚が収められています。世界の均衡が崩れたせいで、魔法の力が失われてしまったアースシー。原因を探るために、大賢人ハイタカは、エンラッドの王子アレンとともに世界の果てまで旅をすることになりました。ついに元凶がクモという魔法使いであることを突き止めた2人は、黄泉の国での戦いに臨みます。表題作の「ドラゴンフライ」は、テルーと同じく竜の化身であるドラゴンフライ(真の名はアイリアン)が、かつて入学を断られた女人禁制のロークの学院で、権力闘争に巻き込まれていく物語。彼女はもうひとつの『ゲド戦記』外伝である『アースシーの風』にも登場するので、あわせて読むともっと楽しめるでしょう。日本でいうと、映画監督の宮崎駿や、漫画家の萩尾望都もそのひとりです。『ゲド戦記』は2006年にスタジオジブリによって映画化もされました。ジブリ映画の「ゲド戦記」は、タイトルこそ小説と同じですが、中身はまったくの別もの。原作の第3巻の要素を中心に、宮崎駿の短編「シュナの旅」を加味した独自のものとなっています。そのため、原作小説の『ゲド戦記』とは大きく異なる箇所があるのです。本作は『ゲド戦記』の外伝にあたり、5つの中短編が収録されています。幼い頃から才能にあふれ、偉大な師オジオンのもとで修業を積んだハイタカは、ロークの学院に進学しました。しかし自分の力を誇示しようと、学院で禁止されていた術を使ってしまい、自身の心の闇である「影」に脅かされ続けることになるのです。オジオンの助言により、ハイタカはカラスノエンドウとともに「影」との対決に挑みます。名前も家族も奪われ、カルガド帝国の聖地アチュアンの墓地を守る巫女となったアルハ。彼女の前に現れたのは、アースシーに平和をもたらす「エレス・アクベの腕環」の片割れを探しに来たハイタカでした。彼の言葉に感化され、アルハは巫女としてではなく、本来の自分であるテナーとして生きる道を選びます。そのため、人々は通り名を用いてお互いを呼んでいるのです。では『ゲド戦記』の主な登場人物を紹介しましょう。また作者自身によるアースシーについての解説もあるため、『ゲド戦記』の世界観への理解がさらに深まること必至。ファンならぜひ読んでおきたい、おすすめの一冊です。映画は知っているけど原作の小説は読んだことがない……という方も多い『ゲド戦記』。実は映画よりももっと壮大なストーリーが広がっているんです。この記事では両者の違いとともに、あらすじや登場人物、名言、さらには外伝の魅力もご紹介していきます。まず、アレンとハイタカの出会い方。原作では父王の命令でハイタカを訪ねるアレンですが、映画版ではなんと父王を殺して、逃走中にハイタカと出会います。このアレンの父親殺しは、世界の均衡が崩れた結果生まれた災いの力が、アレンの精神にも影響を及ぼしていたことを表現するためのオリジナル設定です。魔法が存在する「アースシー」という世界でくり広げられる冒険譚を描いた、ファンタジー小説『ゲド戦記』。『指輪物語』や『ナルニア国物語』とあわせて、世界3大ファンタジーとして愛されています。巫女の役目から解き放たれたものの、いざ自由を手にしてみると戸惑ってしまうテナー。自由には責任がともない、軽々しいものではないということを教えてくれる名言です。本作の舞台となるのは、アースシーと呼ばれる、無数の島と海から成り立つ世界です。物語はハイタカの一生をなぞりながら進み、本編4巻と外伝2巻をもって完結します。第1巻は、ハイタカが精神的に大きな成長を遂げる物語です。自らの心の闇と向き合うのは、彼にとって負わなければならない責任でもありました。ハイタカに限らず、多くの人を奮い立たせてくれる名言でしょう。死への恐怖を口にしたアレンをなだめる、ハイタカの言葉です。いずれ来る終わりに怯えるよりも、人生とは「限りある生をいかに生きるのか」に焦点を当てるべきだと教えてくれる名言でしょう。そして、原作と真逆に設定されているのが「影」の存在です。原作に登場するハイタカの影は、憎しみや傲慢といった負の感情、すなわち心の闇です。しかし映画版のアレンの影は、心の光として描写されているのです。本作の世界では、ありとあらゆるものに「真の名」というものがついています。魔法が存在するアースシーにおいてこれはとても大事なもので、作中でゲドはこのように語りました。前作ですべての力を失い、大賢人の地位を降りて故郷へ帰ったゲドは、ゴハ(アルハ)と、彼女が引き取った少女テルーの3人で暮らし始めました。しかし、彼らを目障りに思う魔法使いによって、穏やかな生活は終わりを告げます。そこに現れた竜の長カレシンにより、謎に満ちたテルーの正体が明らかになるのですが……。作者のアーシュラ・K・ル=グウィンは、SFの女王と称されるアメリカの小説家。『ゲド戦記』をはじめ数々の作品で文学賞を受賞していて、なかでも英語圏のSF、ファンタジー作品に贈られる「ローカス賞」は19回と、全作家のなかで最多となっています。
アニメ映画「ゲド戦記」の評価が低い理由について、分かりやすくイチからまとめます。ネット上ではしきりに「駄作」と評価され、中には「ジブリ1の駄作」というレビューまで存在する本作。映画「ゲド戦記」は本当に駄作なの? また、そこまでボロクソに評価される理由って一体? 影というもう一人の自分と向き合う孤独な旅に思えますが、ゲドは心の支えとなる存在に助けられながら前に進んでいきます。きっと一人では早々に折れてしまっていたでしょう。時には周りの存在に助けを求めることの必要性を感じました。など、この作品は魔法について詳細に設定がされています。この設定は、後のファンタジー小説に多大なる影響を与えました。例えば、魔法の才能を持った子供が全国から集まり、魔法を学ぶ「魔法学校」という設定は、「ハリーポッター」シリーズも影響を受けています。魔法使いがそれぞれ1匹ずつ動物を飼うというのも似ていますすね。僕はてっきりこの「影との戦い」が映画になっているものと思い込んでいました。読みながら、「この部分は映像ではどうなっているんだろう」とか思っていました。ところが、どうやら映画ではゲド戦記の第3巻「さいはての島へ」を原作としているようです。ゲドも出てくるようですが、3巻の時代では既に歳を取っておじさんになっているみたいです。いつになるか分かりませんが、映画は最低でも2巻を読むまでは観ないでおこうと思います。才能溢れる鳴り物入りの少年が魔法学校に入学するという展開はハリーポッターを連想しました。が、主人公ゲドは序盤の頃はハリーに比べるとひねていて、才能を周りに披露したがるような部分もあります。そこから大きな挫折を経験し、自分の失敗、トラウマ、後ろめたい部分の象徴でもある「影」に向き合って、問題を解決しようと努力する強い青年への成長の過程が、ギュッとコンパクトにまとめられている作品でした。ファンタジー小説強化月間その2です。2006年にジブリによって映画化もされたシリーズ。僕は映画は観ていないのですが、ファンタジー小説の名作としてゲド戦記シリーズの1作目であるこの「影との戦い」がよく挙げられていたので、興味をそそられ読んでみました。主人公であるゲドは、物語序盤では類まれな魔法の才能を持った少年として登場します。しかし、決してヒーロー的な存在ではありません。お高くとまった学校の先輩を嫌っていたり、才能を鼻にかけ傲慢な部分もあります。ある日、その先輩とのちょっとした喧嘩が原因でこの物語の重要な存在「影」を呼び出してしまうという取り返しのつかない失敗をします。その失敗以降は人が変わったように自分の殻に閉じこもってしまい、影を恐れるようになります。魔法を使うには対象の「真の名」を知らなければならない。魔法使いは「真の名」を知られないように親しいもの以外には偽名を名乗る。正しい魔法は魔法学校で学ぶ。根拠のない少年時代の万能感や、失敗による挫折、トラウマなど、極めて人間らしい心の動きが妙に共感できます。同時に、物語を通して影と対峙し徐々に精神的にも強く成長していく描写に勇気付けられたりもします。ゲドには数少ない心を許した存在がいました。それは、師匠オジオンと、唯一とも言える親友カラスノエンドウです。影に怯え塞ぎこんでいたゲドを師匠が立ち直らせ、親友であるカラスノエンドウはなんと影と決着をつけるための最後の旅に自分の仕事を置いてまで同行してくれます。僕がファンタジー小説に求める「ワクワク感」のようなものはあまりなく、特にゲドが影を追って各地を旅する後半は、割とハードボイルドな印象を受けました。魔法という存在も、最近の作品のように分かりやすく名前が付いていたりなどはなく、描写は地味です。それはそれで一つの物語としては読み応えがあり面白かったのですが、読了後2巻以降をすぐに読みたくなる感じにはなりませんでした。今のところ、ファンタジーを読むならもう少し派手目でワクワク感のある作風を欲しているようです。また気が向けば2巻も読んでみようと思います。