信子にはまったく悪気はなく、リーダーシップをとるいい子なだけに「太っちょ豚」なんて悪態をつかれてかわいそうになるシーンでもあります。 思い出のマーニー・信子が太っちょ豚と言われた理由と … はじめて見たのは中学生の頃だったと思う。 1回目は泣いた記憶がない。 「ジブリはこんな映画も作るのか~」程度で、物語に対する印象も薄かったし、意味もよく分からなかった。 そんな『思い出のマーニー』がだいすきな映画になった理由について。 思い出のマーニーを見に行って来ました。スタジオジブリの米林宏昌(よねばやしひろまさ)監督作品です。面白かったです。いや、面白いとはまた違う感じかも知れません。いわゆるジブリファンタジーとは違うような感じだし、分かりやすいキャラクターが出てく 思い出のマーニー原作と映画の違いは人物・舞台・設定!再現性や感想・評価についても. ※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※ ※太っちょブタの信子に興味があるかたは、この記事とあわせてこちらを参照することをおススメします ではでは。本題に入る前に、改めて映画の内容を時系列に追って、感想を書いて見たいと思います。 ⇒思い出のマーニー杏奈の病気とは?精神病と言われる理由や原因を調査 ⇒思い出のマーニーといち(十一)の正体は何者?マーニーとの関係は? ⇒思い出のマーニーで信子が太っちょ豚といわれた理由!カッターの嘘はなぜ? 親戚のおじさんが「良いやつなんだよ彼は、話し相手にはならないと思うけどね」と話していることから、危険な人物ではないことがわかります。スタジオジブリの長編アニメーション映画「思い出のマーニー」は、ジョーン・G・ロビンソンというイギリスの作家による児童文学作品が原作となっています。それに加えて、育ててくれた養父・養母が自治体からお金をもらっていることに気づいてしまったアンナは、自分が本当の子供でないおかげでお金をもらっていて自分にはわからないようにしていいる養父・養母に対し、違和感を感じていました。思い出のマーニーの作中では、ほとんどがアンナとマーニーふたりの少女の物語のように描かれています。アンナは夢の中に出てきた子にそっくりなことをマーニーに話すと、マーニーは「夢じゃないわ」と言いました。そのトラウマ克服のため、アンナはマーニーに一緒にサイロに行こうと提案しました。思い出のマーニーでのマーニーは、アンナの心のより所としてアンナを支えてくれる存在でした。そこれは湿っ地屋敷の写真で、裏面にはマーニーの名前が書いてあることにアンナは気がつきました。ジブリ作品の「思い出のマーニー」では日本の北海道を舞台に、喘息の持病をもったアンナ(杏奈)が療養のために過ごすことになった田舎にある親戚の家で、不思議な少女のマーニーと出会い様々な体験をすることでアンナは心も体も癒やされていくというストーリーです。無表情で感情を表に出さないアンナは、前は表情がある子だったが最近は家庭でも感情を表に出していない様子。アンナと十一(といち)さんの出会いは、アンナが初めて湿っ地屋敷に行ったときでした。マーニーがアンナに大岩さんとの生活について質問すると、アンナは大岩さんについてすぐに思い出すことができずに意識は遠くなり気を失ってしまったようでした。さやかからマーニーという名前を聞いたアンナは驚き、さやかと一緒に湿っ地屋敷の中へ入るともう一度アンナがマーニーなのではないかと質問され、アンナは「違うわ」と答えます。アンナが祖母のマーニーから聞いていた子供の頃のマーニーの物語は、湿っ地屋敷やサイロなど限られた場所しか登場していなかったのだと思われます。しかしマーニーと会っている時の湿っ地屋敷はきれいに整備されていて、マーニー以外にも人がいましたね。アンナが信子に「太っちょ豚」と言ってその場から逃げ出し湿地で落ち込むシーンがあります、思い出のマーニーは1度観ただけではすべてを理解するのは難しい作品だといえるのではないでしょうか。気を失いながらもアンナは夢をみているような感覚で親戚の大岩さんご夫婦を思い出し、気がつくとそこにはマーニーがいませんでした。信子にはまったく悪気はなく、リーダーシップをとるいい子なだけに「太っちょ豚」なんて悪態をつかれてかわいそうになるシーンでもあります。アンナはマーニーに1週間会えずにいることを悲しんでいて、自分がマーニーのことを忘れていたことに怒っているのかもと偶然出会った久子さんに話しました。その後アンナがサイロの中でウトウトしていると、マーニーのもとに和彦が現れて2人だけでサイロを去ってしまいました。この時の湿っ地屋敷はきれいに整備されていて、屋敷の中には人の姿もありまるで現実に起きていることのように描かれています。現実世界での時間が充実していることで、アンナはマーニーの事をすっかり忘れそうになってしまっていたようです。さやかはアンナがサイロに向かっている途中で、破れたマーニーの日記を見つけたと言いに来ましたね。そのため、マーニーが和彦と結婚し子供をもうけたことや、家庭の事情も知っていたのですね。まずはこの部分を思い出のマーニーの解説前に理解しておくことで、ストーリーの中で意味わからない・意味不明な部分の解説や考察もよりわかりやすくなると思いますよ!次にアンナがマーニーを見かけたのも同じく夢の中で、しかも最初と同じシチュエーションでした。花売り娘としてマーニーの住んでいる湿っ地屋敷でのパーティーに参加したアンナは、その後大岩さんの奥さんと畑仕事をやったり昼食を作ったり養母の話をしたりと、少しずつ表情も豊かになり充実した時間を過ごしているようでした。そのサプライズは成功し、結果的にアンナは自然にパーティーの中に入ることができましたね。思い出のマーニーのストーリーの中には、私自身も観た後に複数の謎が残ったと感じた部分が複数あり、理解するために思い出のマーニーを何度も見返した経緯があります。養母は「こんな時に夫は出張だし・・・」と話していることから、アンナの家庭はアンナと養父、養母の3人家族だということも同時にわかりました。療養の期間が終わり養母が迎えに来ると、アンナが養母のもとへ来た時にずっと握りしめていたという古い写真をアンナに手渡しました。初見でも必ず理解できる「マーニーはアンナの祖母」という部分をわかっていると、2回目以降はより多くの謎を理解していけるのではないでしょうか。アンナが最初に湿っ地屋敷に行った時は、湿っ地屋敷には誰もおらず敷地内には雑草も生えていて建物もだいぶ古くなっている感じでした。七夕まつりに一緒に行った信子はアンナと良い関係を築こうと、積極的にアンナに話しかけてくれていました。アンナは心に深い闇を抱えているようで、思い出のマーニーの序盤では度々独り言で憎まれ口をたたいています。しかしその後の久子さんの話から想像するとマーニーは本当はパーティーには参加していなかったようです。思い出のマーニーの終盤では、アンナとさやかをボートに乗せた十一さんが「マーニー・・・青い窓の向こうに閉じ込められた少女。遠い昔の話しだ」と彼は初めて口を開きました。喘息の持病を抱えており度々喘息の発作を起こすことと喘息の発作がストレスと関係していることもあるそうで、担当医師から療養を勧められました。そのため、さやかからするとアンナが自分の部屋をいつも見ているように見えていたわけです。マーニーの存在を再確認するように「私のお部屋にきて!」とマーニーに言いますが、マーニーは屋敷のそばから離れられないと答えました。マーニーから、無理やりねえやに怖い場所であるサイロに引きずって連れて行かれたことがあると聞いたアンナ。しかし、サイロに向かう途中からマーニーはアンナのことを和彦と呼んだり、サイロの中でもアンナを和彦と呼んで、アンナもそんなマーニーに違和感を覚えたようです。久子さんからマーニーの生涯を聞くことによって、マーニーが亡くなる10年程前まで孫を育てていたという事実を知ることになりました。アンナが喘息の発作を起こし訪問診療に来ていた担当医師に「相変わらず心配性だね、お母さん」と言われ、アンナはボソリと「お母さん・・・」と答えました。そんなアンナは学校でも浮いているようで、友だちと一緒にいる様子は描かれていません。担当医師にアンナに対する悩みを相談していた母は感極まり「やっぱり血が繋がってないからなのかな・・・」と言って涙を浮かべていました。アンナが最初に湿っ地屋敷にいるマーニーを見たのは、明らかに夢の中でした。湿っ地屋敷でメガネ少女のさやかと会った後、夜眠ると夢の中でアンナはマーニーに会うことができました。湿っ地屋敷に改修工事が入っている事を久子さんから聞いたアンナは、すぐに湿っ地屋敷に向かいます。思い出のマーニーは、初めて見る時は多くの謎を感じながらストーリーを見ることになります。すると湿っ地屋敷のマーニーの部屋の窓が開き、そこからメガネ少女のさやかが顔を出しアンナに「あなたマーニー?」と聞きました。この時点では、アンナの中でのマーニーは名前も知らない夢の中の少女だったわけですね。ひと気のない湿っ地屋敷を見て回ったアンナが帰ろうとすると満潮になっており、歩いて帰ることができなくなっていたところに十一さんが現れ、アンナを助けてくれましたね。親戚の大岩さんのお宅は、現在おじさんとおばさんの2人ぐらしのため、アンナは大岩さんの娘さんの部屋を使わせてもらうことになりました。これは、そもそもお祭りに行きたくなかったアンナにとって信子の行動がおせっかいで迷惑だと感じたからではないかと考えられますね。アンナがマーニーに湿っ地屋敷で行われているパーティーに連れて行かれたのは、アンナが花売り娘になってパーティーに登場するというサプライズを考えたからでした。自分がスケッチブックに書いたマーニーの絵を見て、マーニーの事を思い出したアンナはとても慌てました。アンナはマーニーと会えなくなってからも何度も湿っ地屋敷を訪れていて、その度にマーニーの部屋を見ていたんですね。このことをアンナはどうして自分を置いていったのかとマーニーに問いただしました。アンナとマーニーはお互いの事を知るために3つずつ質問をしていくことにしました。この時点で、アンナと母との関係に違和感を感じた方もいたのではないでしょうか。そこで誰かが乗ってきたであろうロウソクが灯っているボートに気づき、アンナはそのボートに乗って湿っ地屋敷へ向かいました。 「もう一人の自分」や「杏奈の内面」という言い方も僕は正しいと思うのですが、支配されているほうが杏奈で、支配している方がアンナです。未来が杏奈で過去がアンナ。親が杏奈で子がアンナ、だと僕は思ってるんですけど、ここがすごく難しくて、今の僕の考えでは、やっぱり親杏奈子アンナなんです。何故か逆じゃ無いと感じるんです。単なる記述の問題なのかな。親が子(自分自身の子供の頃)に会いに行く、過去の自分に会いに行く、そういう感覚なのかも知れません。この考えは、思い出のマーニーの物語ともリンクしていると言えるかも知れません。村崎真惟さん、質問ありがとうございます。もちろん自分の考えが正解ではありませんが、様々な感想がある中、皆さんの感想の返信に通づるものもありますし、今自分が考えている事をお答え出来れば、と思います。自分もすべてに答えを出せている訳でない為、理詰めでなく感覚的な部分が多々あること、了承下さい。決して、外側駄目で内側万歳ではない、と僕は思っています。その逆も然りです。もちろんそうなんですが、自意識と言うか、認識は残酷です。現実は残酷です。今すぐ極度に一人になりたいというか、一生考え続けたいというか、誰にもコントロールして欲しくないというか、空気を揺らさないでほしいというか、なんというか。(Q1)の「50年前」の件ですが、自分にもその認識はありません。もしかすると原作の記述に、マーニーの日記に何かそういった年代との繋がりが記されているのか、マーニー自身の年代的にそういう事と認められるのか、など何か記述があるのかも知れません。例えば映画の中の小物の年代的にそういう風に認められるのかも知れませんが、映画の中にはっきりと50年以上前だという記述みたいな証拠は無かったと思います。見落としていたらすみません。すべてが、僕の勝手な思い込みなのかもしれませんが、やはり、ここのアクションだけは他と違ってどうしても引っかかったので、僕の勝手な想いを書きます。金曜ロードショーを観てからの2日、僕の中の杏奈な自分(中身はおっさんです)が中々消えなくて、ここに辿り着きましただから、これからの杏奈もとても心配ではありますが、それでも僕は、杏奈のすべてを肯定すると思います。この辺りの解釈が人ぞれぞれなのも、この映画の面白いところだと感じます。これはもしかすると、”杏奈”ではなく、”アンナ”がそうしてしまったとも言えるかも知れません。僕は、杏奈が誰かに愛されているということを知ったことよりも、誰かを愛してもいいんだと知ったことのほうが、すごくすごく、うれしかった。だからなのか、結構マーニーも酷いんですよね。酷いというか、現実的というか、アンナの想いとの差がありすぎるというか、怖い感じさえするというか。そして、それを、つまり結果的に、アンナを、サイロでだけではなく、その後の人生をもひとりぼっちにしてしまったマーニーに、最後、アンナは「許してあげる、あなたがすきよ、マーニー」とちゃんと会って伝える。毎日毎日悲しみを請け負っているアンナがいることを、杏奈自身が認める(許す)物語なんじゃないか、と。rim mimitowaさん、ブログ読んで下さってありがとうございます!それを、僕は肯定したいのです。杏奈のすべてを肯定したいと思っています。絵的なこと、背景とか、風景とか、あと、主題歌も、音楽も、声も、すごく心に染みました。自分はよく明晰夢をみるので この作品は主人公がみている明晰夢なんだと解釈しております。2011年4月より、まなべやブログゆっくり更新中。9年目。お金・健康・本・手帳についての学びを執筆中です。エンタメ・ガジェット合わせ、体験・経験・癒しを元に執筆・シェアを心がけております。絵・本・音楽・手帳・食・展覧会・映画・漫画・アニメ・ゲーム・通信・金融・骨董・アンティークなど大好きです。経済・ビジネス・アート全般を、科学的・文学的観点から、簡単・楽しく・分かりやすくを胸に、熱く紹介させて頂きます。宜しくお願い致します。これから見ようと思っておられる方は、こんなブログなんかここまでにして、今すぐ劇場に行って下さい。ほんとに。自分の中では、アンナは悲しみを請け負う人、杏奈は普通のフラットな杏奈という認識でした。ちなみに、杏奈は喜びを請け負う人、ではありません。僕は、杏奈(あんな:短い髪の子)が持ってる暗い雰囲気が大好きですので、むしろ、後半の元気になる感じに違和感がありましたが、それは好みだし、思い出のマーニーという物語上そういうものなんだろうと自身を納得させました。杏奈であろうが、アンナであろうが、あなたはあなたでしかない、のだから。だから杏奈だろうが、アンナだろうが、あんたはあんたのようにしか見えない、と信子に言われても、そんなこと初めから分かってる、ということなんだろうけど、そういうお前こそ、自らのノブコに気がついて無いだけじゃないのか、無視するなよ、という憤りもアンナにはあったのかも知れません。その後、手当たり次第にいろいろな方の感想やレビューを読んで見ましたが、「これぞ、鑑賞文の鑑」と言えるレビューにようやく出会えました。ご自分の体験に引きつけて、誰のマネでもない文章をお書きで、敬服致します。今日思い出のマーニー見てきました。正直大好きな映画になりました。最近あのような自分の事を嫌いな女性に恋をして、どうにかしてあげたいと思って色々したけど結果的に嫌われてしまいました。杏奈とアンナ、二人は同一人物です。そこに時間の流れがあるだけです。いつも一人なのです。アンナの存在を認められるかそうでないかで、かなり評価が分かれそうな気がしました。それは、可哀想とかじゃなくて、冒頭でアンナが語る、自分は”外側”にいるという事実を自身で強く感じてしまっている状態なのかと。今日金曜ロードショーで、思い出のマーニーを見ました。最後のほう泣いてしまいました。私も杏奈は正直暗いままでいてほしかったし、マーニーは周りにいたら面倒な子かなとも思いました。杏奈の暗い性格が好きで共感しちゃいました。でも日記があったのだから、マーニーとの日々は幻想でなく本当の出来事だと思いたいです。ジブリはあまり見ないほうなのですが、この作品は私にとって、千と千尋を抜いた一番お気に入りになるかもしれません。 絵も音楽もいいです。同じ頃の僕は、アンナとは違って両親もそばにいてくれたし、周りのみんなもすごく優しかったんだけど、心も頭もなんだかめちゃくちゃで。小舟が屋敷につくところとか、サイロのシーンとか、最後の許すシーンは、僕を掴んでずっと離してくれませんでした。原作を読んでいないため、実際どういった扱いなのか分からないのですが、思い出のマーニーは、時空(祖母)や物質(人形)を超えたところでちゃんと触れ合えたというファンタジー、という建前の超現実的なドキュメンタリー、なんじゃないかと僕は感じました。もしかすると内側にいる人は、アンナを全く意識していないのかも知れません。存在を認めた後なのか、それ以前なのかは難しいところです。人ぞれぞれなのかもしれません。皆さん、ブログを読んで頂き沢山のコメントまで頂き、本当にありがとうございます。すべてに返信できなくて申し訳ありません。一つ一つ全部読ませて頂いています。皆さんの様々な感想がとても興味深く胸を熱くしております。エゴでも何でも、映画と一緒に自身の心の揺れを自身で強く感じてしまいました。信子には怒鳴りに行ってくれるような家族がいつもそばにいるけど、アンナは自分にはそんな家族はいない、というようなことを、ひたすら数限りなく考え続け感じ続けてしまっているのだと思います。それが、人間の強さの源泉、なのかも知れません。時に、負の感情から強さが溢れる出る事もあると思います。自分を守りたいが為の行動を非難する事は僕には出来ません。つまり僕は、アンナの気持ちが分かるんじゃなくて、アンナのような子は今も現実にいるんじゃないかな、と感じたのです。何故なら、もしかすると、それらも含めすべてが、”外側”にいる杏奈が見た景色そのものだったのかもしれないと思ったから。アンナの状態をうまく言えないのですが、出来るだけ自分に当てはめ言葉にしようと試みると、多分もう、めちゃくちゃなんだと思います。時空や物質を超えて現実を知ってもなお、”内側”と”外側”の差は圧倒的なものなのだと、僕は感じてしまっています。マーニーがアンナに許しを乞い、行動できないアンナに変わって杏奈がそれを許します。杏奈も信子も不器用で素直じゃないんだなって観ててほっこりしました。マーニーは、アンナがどこからきて、誰なのか知っていたのかも非常に気になります。僕は上記の理由から、知っているような気がしています。つまり、マーニーはアンナの想像上の人物などではなく、実際に出会っている、ということかと僕は感じています。だから分かります。もう一人の自分がいつもどこかで見ているのが。僕が最終的に杏奈が笑顔になって少し違和感があったのは、それが、アンナではなく杏奈のもののように見えたからです。正直、まだ早すぎると思います。これからもアンナがそばにいることを隠す必要は無いと思います。だからこそ、外側と内側のどちらが居心地が良くて優れているかなども、やっぱり人それぞれで、それが個々の感想の違いなんかにも現れているのではないか、とも感じています。外側の人は、アンナの存在を完全に認識しており、申し訳ないと思いつついつも押し付けており、この世界は悲しみに溢れているため、自分を守りたいがためにアンナを守る時、杏奈が変わって内側の人間に強く出てしまうこともあるのだろうと思います。杏奈は、信子(のぶこ:杏奈の療養先にいる同世代の女の子)にいきなり酷い事を言って、結局最後までたいしたフォローもないんですが、これが正直、自分にも思い当たる節があって、勝手にめちゃくちゃ心が痛みました。それでも杏奈はいつか、信子にしたことの大きさに、失ったものの大きさに苦しむかも知れません。思い出のマーニーは、杏奈を救おうとする物語であると同時に、マーニーを救おうとする物語でもあるのだと僕は思います。あと、アンナとマーニー以外の登場人物にいまいち奥行きが無いと感じたり、全体的に動きが少ないと感じたり、何か軸になるアイテムが欲しいと感じたり、ストーリーに流れやメリハリが欲しいと感じたり、前半部分を短縮してアンナとマーニーのみに絞って90分ぐらいでもよかったのではないかなどと感じたりしましたが、それでも、僕は「思い出のマーニー」が好きだなと思いました。米林監督を始め、関係者の皆様、素敵な作品をありがとうございます。いや、想像なのか空想なのか現実なのか真実なのかどうかなんて、そんなのどうでもいいんです。僕にも思い当たる節があるんです。いわゆるジブリファンタジーとは違うような感じだし、分かりやすいキャラクターが出てくる訳でもないので、すごく小さな子供たちにはちょっと難しさが残るかもとは感じました。杏奈やマーニーと同じ、小学生の高学年ぐらいだったら多分、大丈夫だと思います。僕は”外側”で起こったことが、杏奈にとってもマーニーにとっても、どうしても必要なことだったとしか思えません。杏奈は、マーニーを、両親を、信子(内側)を、そして、自分を許すために。マーニーは、アンナのそばに、ちゃんとそこに存在していて、アンナはちゃんと、肌のぬくもりだったり、息づかいだったり、生や性を感じている。(Q2)の「杏奈」と「アンナ」の違いですが、様々な感想があると思いますので、あくまでも自分の認識という事で書かせて頂きます。だから、アンナもそんな感じなのかな、とかなり勝手に痛みを感じてしまいました。ただ、何となく、元気になったけど、性格は暗いまま、というほうがよかったなと思いました。同時に僕は、アンナの思い出、つまり、マーニーの存在も認めたいです。クソみたいに自分勝手でめんどくさい人間なのは自分でも痛いほど分かってるんですけど、もう、ほっといてほしい。そしてそれは、杏奈の存在と同時に、アンナの存在も認められるというか。逆に、子供なんて人間なんてそんなもんだ、と言える勇気があればいいんですけど、僕にはそこまでの勇気がありません。杏奈はマーニー(金髪の女の子)を許しても、信子には許されないでしょう。劇中、信子はアンナに「あなたはあなたでしかない」というようなことを言います。暗くても明るくても大好きだよ、と、そんな言葉を、僕が僕に言えたら良かったのかも知れませんね。僕は、杏奈は信子のようにはなれないと思っています。なぜならそれは、もう杏奈じゃないからです。そもそも、なる必要もありません。それこそ、杏奈はアンナを含めて、すべてが杏奈そのものなのです。ようするに、現実と空想が入り乱れている物語ではないと僕は思います。でもこれは、信子はすでに、自らのノブコの存在を認め許し、尚且つ守り育みながら行動しているかも知れない、とも言えると思います。信子の強さを認めるかどうか、など様々な意見があると思います。マーニーの杏奈に対する「あなたのことをたくさん知りたい、でも、少しずつ知りたいの」というような言葉がとても印象的だったから。本当に嫌いになった人ならあんな言葉は書けないと思いますしあの後どうなったかは観る人の想像に任せますて感じがやはりジブリの良い所ですね。トッキャノン砲さん、ブログ読んでくださってありがとうございます!信子の言い方は確かにぶっきらぼうな言い方でしたが、あれは信子なりの杏奈への伝え方であり、そして信子のうわべだけで無い心からの杏奈へのメッセージだと思います。それでも、まだまだ先は長い。まだ何もかもが始まったばかりです。存在を認めて、尚且つ、いい子いい子してあげることは、同時に、普通の人物である自分(杏奈)がすべての悲しみを支えなければいけなくなる為、杏奈の今後がとても心配です。
思い出のマーニーの十一(といち)の正体は花売り?名前の由来についても. 思い出のマーニーが意味不明で理解できない?伝えたいことや理由についても