東塔修理作業最終公開. お手持ちになられている薬師寺のお写経ご納経のお願い 詳細 その美しいプロポーションから見るもの全てを虜にする日光・月光菩薩立像です。少し腰のひねったリラックスした様な立ち姿は私たちに柔らかい印象を与えいる、白鳳時代最高傑作と名高い仏像です。薬師如来をお手伝いするために両脇に位置しています。その名の通り「日光」が日中を手伝い、「月光」が夜を手伝うとされ、現代に置き換えると「看護師」の様な役割に当たります。中国・六朝や唐の影響を受けつつ、独自の古典様式を完成した7〜8世紀の作品の中でも最高傑作の1つとされています。飛鳥時代の仏像と比べつと肉付きが良くなっており、顔を丸くなっていることから典型的な白鳳仏と言えます。薬師如来像は通常左手に「薬壷」をお持ちですが、奈良時代や平安時代初期の仏像は薬壷を持っていません(例:唐招提寺)。680年、天武天皇は皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願し藤原京に薬師寺を発願しました。698年に完成しましたが、天武天皇は完成を見ることなく亡くなりました。710年に都が平城京に移ると、薬師寺も718年に現在の地に移りました。その後は荒廃し境内には東塔と東院堂を残すのみとなっていましたが、昭和期の高田好胤管長の呼びかけによる「百万写経」を達成し現在の姿へと戻りました。薬師寺と唐招提寺の間にある蕎麦屋です。他では滅多に食べられない本格的な十割そばがいただけます。あまりの美味しさに西の京へ立ち寄った際はほぼ毎回お邪魔しています。銅造 日光菩薩317.3cm、月光菩薩315.3cm 制作年代:白鳳時代梅は東僧坊、玄奘三蔵伽藍付近に多く咲き、紅白様々な梅が楽しめます。美しい伽藍に咲く梅は普段見る梅とは一味違います。創建当初の食堂は天平2年頃に建てられたとみられますが、天禄4年に焼失しました。その後、寛弘2年に再建されましたが、再び失われ平成29年に再建されました。食堂は僧侶が斎食をするための建物で、僧侶約300人が一堂に会する規模であったと発掘調査により判明しています。薬師寺が創建当初より唯一残しているのがこの東塔です。一見六重に見えますが、実は三重の塔です。これは各層に裳階「もこし」と言われる小さい屋根があるためで、この大小の屋根の重なりが律動的な美しさをかもし出し「凍れる音楽」という愛称で親しまれています。塔の上層部を相輪「そうりん」といいます。その更に上部に尊い塔が火災にあわぬようにとの願いをこめて、水煙が祀られています。水煙に透かし彫りされた24人の飛天は笛を奏で、花を蒔き、衣を翻し、祈りを捧げる姿で、晴れ渡った大空に御仏を讃えています。吉祥悔過会の本尊として製作されたものと推定されます。吉祥悔過会とは奈良時代に始まり、年の初めに宮中や諸大寺において吉祥天像を祀り、過去の罪を悔い改めるとともに、国家の繁栄や幸せ、五穀豊穰などを願って営まれたものです。桜は東院堂、玄奘三蔵伽藍付近に多く咲きます。美しい白鳳伽藍と桜は良くマッチし、より一層美しくします。金堂に安置される日光・月光菩薩像とよく似た同時期に造立されたと考えられる仏像です。造立時期に関しては白鳳時代説と天平時代説がありますが、当サイトでは白鳳時代として扱います。ただし日光・月光像に比べ決定的に違うところは、胴部に「くびれ」の有無です。こちらの聖観音菩薩像にはそれがなく、体部の抑揚は自然なカーブで表現されています。光背は後期の補作。東院堂は、養老年間(717~724)に吉備内親王が元明天皇の冥福を祈り、建立しました。天禄4年(973)の火災で焼失したため、現在の建物は弘安8年(1285)に再建されました。高い基檀の上に建つのは、水害・湿気を避けるためであり、鎌倉時代後期の和様仏堂の好例です。白鳳伽藍から唐招提寺方面に少し向かったところにあります。玄奘三蔵とは、中国唐代を中心に活躍した僧侶です。玄奘三蔵は当時の中国に未だ伝来していなかった経典を求め、インドへ求法の旅にでます。最遊記の元となった人物でもあります。また法相宗の宗祖・慈恩大師の師であり、薬師寺が法相宗の始祖と崇める玄奘三蔵の威徳を讃えるために1991年に建立されました。玄奘三蔵伽藍付近に多く咲き、拝観者を出迎えます。桃色、赤色、白色など多数の色の牡丹があります。薬師寺の造営は藤原京の地(橿原市)で始まりました。天武天皇が没した後、皇后の持統天皇が引き継ぎ、発願から18年後の698年、文武天皇の代に完成したとみられています。その後、平城遷都に際し現在の地に移転されましたが、もとあった薬師寺(本薬師寺)もしばらく存続しており、その寺跡は「本薬師寺跡」として今も残っています。秋にはホテイアオイが境内に咲き誇ります。Copyright © 奈良寺社ガイド All Rights Reserved.
薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木偏に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。 東塔と西塔は、その美しい姿によって、海外からも高い評価を得ています。六重の塔に見えるのは、各層に裳階(もこし)が付いているからですが、六重の塔はないのでしょうか?五重塔は仏教の世界観・五大思想から、下から「地」「水」「火」「風」「空」を表しているといわれています。薬師寺といえば、薬師三尊像、写経体験、平山郁夫といろいろ見どころはありますが、やはり一番印象的なのは、東塔と西塔の美しい姿ではないでしょうか!?薬師寺の塔の裳階は天武天皇に寄り添う持統天皇を表したものともいわれる、ロマンチックな説もあるんです。2018年の春に、村上管主が落慶法要の日程を2020年4月22~26日と発表されていますのでただ、薬師寺の東塔は2010年(平成22年)晩秋から約10年間6重の塔のように見えますが、6重の塔とはあまり聞かないから、五重塔?と思われている方も多いと思います。が、西塔は1981年、40年ほど前 453年ぶりに、再建されたものなんです。薬師寺は天武天皇が皇后の病気治癒を祈願して680年に建てたお寺です。五重塔は興福寺をはじめ法隆寺・室生寺・海龍王寺・元興寺と数多くあります。屋根の反りの違い、連子窓(れんじまど)があるかないか等、よく見るといくつかの相違点があります。薬師寺の東塔と西塔も両方、各層に裳階(もこし)を付けているため、六重の塔に見えますが、三重の塔です。東塔は、解体修理工事は2010年晩秋から始まり、約10年後の2020年まで見ることができません。薬師寺の東塔は創建以来いくつもの戦禍や火災をくぐり抜け、薬師寺伽藍唯一の創建時の建築物として今日までのこっているものです。また、年輪年代測定の結果、薬師寺の東塔は710年の平城京遷都以降に建てられた可能性の高いことが明らかになっているそうです。東西両塔の大きさ、形状の違いは木材の乾燥収縮を、基壇の高さの違いは地盤沈下を考慮したものであり、500年後には東西両塔が同じ高さになり、1000年後には屋根が設計どおりの形状になるのだそうです。薬師寺はピカピカしていて、写経など、お金儲けがすごいって少し思っていましたが、薬師寺の東塔は特異な形が、全体として律動的な美しさを保ち「凍れる音楽」との愛称で親しまれているそうです。三重塔は下から「国家万民」「官吏等の支配階級」「天子(国王・帝)」の安心・安寧を願うためのものとする天台宗の考えの反映とされています。(三重塔は天台宗の寺院に圧倒的に多い)玄奘三蔵院伽藍公開時、伽藍内では平山郁夫氏が30 年かけて描いた、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」が拝観できます。平成21年より解体修理に着手しており、現在は覆屋に覆われておりその姿を拝むことは出来ません。修理の概要として、瓦、木部、基壇などを全て解体し、地下の発掘調査が行われます。その後、傷んだ部分の修繕を行いながら再び組み上げ、平成32年の春に修理が完了する予定です。白鳳伽藍には天武天皇の立派な理想の国を造ろうと熱意を表しているということで、これから先の日本を見据えての復興だったのですね。若草山の山焼き+東塔と西塔の写真が撮れるのは、2021年オリンピックの次の年の山焼きからになります。ただの装飾ともいわれていますが、有効な耐震構造の働きをしているそうです。奈良のお勧めスポット、アクセス方法(行き方)やランチや楽しみ方を